「推すことの倫理」を自分のために考えた

かれこれ15年ほど、波はあれどいわゆる「アイドルを推す」ということを続けているが、ここ数年とくに「自分がされたら嫌なことを好きなアイドルに対してやっているな」という感覚を強く持つようになってしまった。

ここで言う「自分がされたら嫌なこと」というのは、見た目についてとやかく評価する(褒め言葉も含め。「顔がいい〜」ってちょっとなんか、異常ですよね。)とか、一つ一つの言動から勝手に何かを読み取って想像を巡らせるとかそういうことだ。

 

そもそも「推す」というのは、相手が自分をどう思うかをまるで無視していい環境で相手に好意を向けるということだ。重要なのは「相手が自分をどう思うかを無視して」という部分。恋人と呼ばれる関係になりたい相手や友人と呼ばれる関係になりたい相手に簡単に好意を伝えることができないのは、相手が自分のことをどう思っているかわからないからだ。しかし、「推し」に関してはそもそも「あなたが私をどう思おうと知りませんが」という意味合いが含まれているように思う。あまり親しくない後輩に「〇〇さん(私)のこと推しなんです〜」と言われたことがあるが、どうにも居心地が悪かったのは「あなたがどう思おうが知ったこっちゃありませんが」というニュアンスを私が感じてしまったからだと思う。仮に自分が多少好意的に捉えていた相手からであっても「推しです」と言われたらかなりがっかりしてしまう気がする。そっか、君は私が君に向ける感情のことはどうでもいいんだね、双方向的なコミュニケーションを取る気はないんだね、と極端かもしれないが私は思ってしまう。

少し話が逸れてしまったが、この文章で考えたいのは「自分がされたら嫌なことを相手(好きなアイドル)にしている」という罪悪感について自分の中でどう落とし所を見つけるのかということだ。

 

結論から述べればというほどでもないが結局は、「彼らがそういう立場を自分で選んだ人だから」ということでしかないのだろう。「推す」というわりと気持ち悪めの感情を抱く免罪符を何かに求めようとすると、結局ここに行き着いてしまう気がする。あえて言い換えればアイドルの「自律」というような話だ。アイドルになるのもそれを続けるのも、そのうえでどのように振る舞うのかも、ある程度彼らの「やりたい」という意志に基づいていてほしいし、それぞれの仕事に彼らの主体性が伴っていてほしいのだ。それが仮になかった場合、私がやっていることは暴力的だと言わざるを得ない。

とはいえ「やりたいって自分で言ったんだから仕方ないでしょ」で済ませると、例えるならば"痴漢されるのはそんな服着てるから"の論理が通用してしまうようであまりに危険なので、もうひとつルールが必要だと思う。それはこれも当然のことだが「彼らが届けようとしているものだけを受け取ろうとする」ということだ。当然ながら個人情報に関することや彼らが仕事中以外の時間(いわゆるプライベート)に何をしているのか、どんな人間関係のうちにいるのかなどということを彼らがこちらに伝える以上にこちらから知ろうとするのはルール違反だ。

こう考えると、彼らの容姿への無遠慮な言及は場合によっては許されるのかもしれない。なぜなら、少なくとも私の好きなアイドルは私と違って自分の容姿が自らの力強い商品であることに自覚的で、「容姿が魅力的であること」は彼らが私に届けようとしているものに思われるからだ。

だがそれも「常に」ではない。例えばキメッキメのミュージックビデオや雑誌の写真を見ているときと、彼らがインタビューやら何やらで彼らの考え等を一生懸命話しているときでは「推す側」の態度は同じではいけないのかもしれない。

また、私はYouTuberであるところのQuizKnockがアップした動画に「ビジュいいですね!」というコメントがついていることに強く強く違和感を持ち、明確に「失礼だな」と思う。これは私にとってQuizKnockの面々は「容姿を商品として届けようとしている人」ではないからだ。

 

つまり、次の2つを満たしているとき特定の誰かを「推し」てもいいということになる(あくまで私にとってだが)。

1.彼らが自ら推される対象となる職業に就くことを選び、それを自らの意志で続けていること

2.推す側である私が彼らが届けようしているものだけを受け取ろうとすること

 

1.について、アイドルの「自律」というような言い方をしたが、アイドルの「自律」ということを言うのであれば、やはり考えねばならないと思ってしまうのは日本の女性アイドルについてである。(私の「推し」はもっぱらジャニーズアイドルなので女性アイドルについてはあまり深く考えられていないかもしれない。もし的外れな点もあったら教えてほしい。なるべく穏やかに。)

日本の女性アイドル(秋元康プロデュースのアイドル、もしくはそれに影響を受けたアイドルと言った方がいいかもしれない)は、彼らの自律性を奪って「振り回す」ことでエンターテイメント性を獲得しているように見えてしまうのだ。ここに私が彼らを「推せない」理由があるように思う。またこれも感覚値ではあるが、女性アイドルの方が年齢が若いことが多いように思う。小学生や中学生に「アイドルとしての自律」を求めることは私にはできない。

「総選挙」も「選抜」も、彼らを彼ら以外の誰かが決めたルール(一度に出演させられない人数をわざわざ採用して「選抜」するとはこれ如何に)の中で振り回し、意地悪な言い方をすれば振り回される彼らを「高みの見物」させる、することで金が動きエンターテイメントが成立しているように見える。(「全員選抜」という形をとっているグループもあるそうだが、今後もそうなのか、人数が増えたらそうでなくなってしまうのか…)

便宜的に「女性アイドル」という言い方でこの話題を始めてしまったが「振り回されている様を高みの見物する」という構造は「女性」アイドルであることに意味があるわけではなく、いわゆる視聴者投票系のオーディション番組も同様だ。また、女性アイドルの中にもあくまで私にとって、ではあるが「自律」を感じられるように思える人もいる。

 

ジャニーズアイドルの自律性についても当然危ぶむべきものではある。特にジャニーズJr.と呼ばれる存在については「デビューできるかできないか」という大きな分岐が「偉い人」だけに握られており、たくさんの少年たちが「振り回されている」ことが想像できる。また、かつて強大な権力をもったひとりが、少年たちの夢を人質にとって最悪な方法で彼らを支配していたという事実が本当に悲しいことながら明らかになってしまった。

そういう意味では、昨今のジャニーズから別事務所への移籍という流れも、自分の行く末を自分で選びとる選択肢が増え、自律的に単一の権力によって振り回されることから逃げ出す方法ができたという意味では喜ばしいことなのかもしれない。

 

こんなにいろいろなことを考えないとやってられないなら「アイドルを推す」なんて辞めちまえと自分でも思うのだが、そういうわけにはいかない。「辞めちまえ」と思うときすでに、「推しが必要な私の人生」は進行しているのだ。いろいろと参ってしまって休職していたとき、好きなアイドルのカレンダーをめくることは、私が私の日々を積み重ねることそのものだった。

アイドルがファンの支持によって成立しているというのもまた事実なのでファンはアイドルにとってありがたい存在ではあるだろうが、同時に心底気持ち悪い存在でもあるだろう。

それでも感謝の方だけをいつも伝えてくれようとする彼らに心の底から敬意を表し、彼らを大切にすることと「推す」ということの共存に今後も頭を悩ませ可能な限り言語化に努めたい。

最後に、ジャニーズ事務所に所属しているアイドルを推しとしている私は情けなくも昨今のニュースについて冷静に考えることがどうにもできず、「私の大切なあの人たちが過去にも今にもなるべく辛い目に遭っていませんように」とあくまで個人的に祈ることしかできない。彼らが本当に辛い思いをしているとき、その辛さは私に対していつも巧妙に隠されているのだということを忘れずにいたい。